つかこうへいTRIPLE IMPACT『いつも心に太陽を』レビュー。まるで美しい地獄のように。
まるで美しい地獄のように。
夢の話は駄目なのだ。
夢と才能の話は、もっと駄目だ。その上不確定な未来と美しさまで掛け合わせて、一体何をどうしようっていうんだ!
『いつも心に太陽を』初日を見終えて、思わずそんな風に呆然としてしまった。
『熱海殺人事件』での柳下大を、『広島に原爆を落とす日』での高橋龍輝を知っていたから、絶対に間違いはないだろう、そう思って劇場に駆けつけたけれども、私は相変わらず演目に対して無知だった。一体何を語る物語なのか、なんにもわかっちゃいなかった。心の準備をしていなかった。
物語は、狂おしいほどの愛の話だった。美しい青年がいて、その美しさに惚れ込む人間がいる。彼らの愛には社会的少数者としての困難が伴う。けれど愛情だけを求めた人間など誰もいなかった。それゆえに、多数派であれば解決した問題など、何一つもなかったのだろうと思う。
エキセントリックで、センセーショナルな。彼らの姿だけをそれこそ見せもののように劇場へ観に行ってもいい。服を脱ぎ、海パンひとつになることなど、生身の心を晒すことにくらべたら、よほど慎み深い行為だ。
登場人物達は誰もが、いびつな心をすりあわせるために言葉を尽くす。大道具のひとつとしてない舞台で、怒濤のような台詞回しで、決して合わないコインの裏表のように言葉を並べ立てる。それでも皮肉なことに、彼らの心が重なり合うのは言葉のない時ばかりだった。まぼろしのような一瞬の、夢の中でだけ。
夢を追うことは本当に美しいことなのだろうか。正しいことなのだろうか。そんな問いかけは、物語の中ですでに投げられることさえない。彼らはもうすでに、選べない所まで来てしまっている。夢を、見てしまっている。
夢を追うこと。誰かの夢を支えること。誰かの夢を重ねて見ること。それはまるで永遠に続く、美しい地獄のようではなかったか。
そして、一度その美しさを知ってしまった人間が、果たして夢から逃れることなど出来るのか。
作中で何度も口にされる、「きれい」という言葉の持つ意味を考える。それは賛美であり肯定であり告白だ。一方で、他の可能性を排斥し、未来を狭め、生き方を限定する呪いだとも思った。
美しさとは正義であり、暴力的な価値観だ。
そして、暴力とは、快楽だ。
私はこの物語を、愛情の物語だとは決して思わない。どこまでも残酷で、それゆえ美しい、夢の話だと思う。そう唸るように言った私に、一緒に見ていたお友達が「それは、貴方も博打打ちだからですよ」と小さく笑った。
2015年 2月24日(火) 紀伊國屋ホール観劇