『新・幕末純情伝』投票箱に、願いごと
つかこうへい芝居は本当のことをなかなか語らない。
まだ出会いたての、歴史も文化もかけらも知らない私の抱いている勝手な印象だけれど。
つかこうへい舞台が自分に与えた衝撃、についてはまた別の機会に語る事にして、今回は、これから初めてつかこうへい舞台を見に行こうとする人へ、気をつけなよ、と囁くためにレビューを書こうと思う。
気をつけなよ、びっくりして、かえってこられなくなってしまうかもしれないよ、と。
私にとって三つ目の「つかこうへい芝居」はつかこうへいダブルス@シアタートラムだった。
つかこうへい舞台はとにかく台詞量が多い。舞台装置が少なく、端役は主要役者が兼ねることも多い。筋立ては決して単純ではなく、その時々の演出に解釈を必要とする。
そして、必ずしも、本当のことをなかなか語らない。
そんなつかこうへい芝居を二本立てで続けて行う、演じる方だけではなく見る方にも過酷な公演だった。
その一本目は「新・幕末純情伝」。
沖田総司は女だった、というフレーズの有名なこの作品、初日の客席はすでに本の筋を知っている人が多かったように思えた。ハンカチを握って、何かを覚悟し、同時に諦めもして座っている、そんな客席で、筋を知らない私もまた覚悟を決めたし、始まる前から涙をこらえることを諦めていた。
近くの席で誰かが言った。
「この規模で見られるって、本当幸せだよね」
大道具のひとつもない、飾り気なく潔い舞台には中央前方に刀が一本刺さるだけ。
200席強の劇場だからこそ、伝わる言葉はあるし、感じる熱もある。同時に隠しきれないものも。
可憐で悲痛な、女沖田総司の相手となる、坂本龍馬を演じる神尾佑さんは、どっしりとした存在感が印象的だった。
質感が違う。重量感が違う。大人は覆らない。大人は翻らない。それはある種の重さであり不自由さでもあるような気がした。
——「日本とは、おまんの美しさのことぜよ」
最後まで曲がらない男は、最後まで曲げる事が出来なかった男なのかもしれない。それでも彼は、頑なに本当のことを言わない。矜持を捨て、みっともなく女にすがることをしない。できない。
対比するように脇を固める若手役者の、軽薄さが良かった。
決して叶う事が無い理想を語る新撰組隊士の桑野晃輔さんは、新しい時代に新しい教科書をつくりたいと言い、刃に散る。土方歳三役の細貝圭さんは、総司に対して饒舌に愛を語り、強引に総司を自分の女とし、他の男を見るなと頬をうち、そして「肺病持ちにキスなんかできるかよ!」と下衆びた罵倒をしながら、身体と心の乖離に引き裂かれていく。皆、弱さと若さゆえに嘘ばかりを重ねていく。
もちろん若手だけではなく、市瀬秀和さん、吉田智則さんといった、重厚な芝居が物語の骨格を支え、早乙女友貴さんの舞うように美しい殺陣を、いつまでもいつまでも見ていたいと思った。
まっさらな舞台の中央で輝いていた、芝居は三年ぶりとなる桂小五郎役の高橋龍輝さんの美しい指先の芝居。かすれてなお艶のある声と言葉を聞いた時に、誰もが彼を待っていたし、信じていてよかった。追い求めてきてよかったと思ったに違いない。彼の絶叫は、何より悲痛で涙を搾り取られるようだった。
そして今回が初舞台となるヒロイン沖田総司役、河北麻衣子さん。なんと重い荷を背負わされた初舞台だったことだろう。つたない台詞、震える殺陣、男を装っているとは思えない、可憐な姿。
それが、なんともなんとも哀れだった。
つかこうへい芝居は本当のことをなかなか語らない。嘘ばかりをついているわけではない。絶叫するように理想を語り、信念を語る。けれどそれが、本当のこととは限らない。決して丁寧とは言いがたい怒濤のような感情の動きを、過激な言葉の内側に隠された本当のことを、私達は読み取らなくてはならない。
だからこそ、彼の残した芝居を様々な形で、役者で、演出で見てみたくなるのかもしれない。
余談ではあるのだけれど、会場ロビーに「投票箱」があり、キャストシャッフルのスペシャル公演に向けてリクエストが出来る仕様になっていた。
劇中において、新撰組隊士が、来るべき新しい時代への一票として、それぞれの夢を書いた紙をいれるシーンがあるためだ。
その投票箱に好きな役者さんのお願いを書いて入れようとしたら、同行の友人に「その投票箱叶わないやつだよ!」と言われた。た、たしかに、と笑ってしまった。
新撰組隊士の夢は叶わなかった。教師になること。自由な職業に就くこと。そして、総司の肺病が治ること。
いや、叶うのかも、叶ったのかもしれない、少なくとも、新撰組隊士達は叶うと信じていれたのだ、と祈るような気持ちで、一票を投じて帰路についた。
公演名・つかこうへいダブルス2014 『新・幕末純情伝』『広島に原爆を落とす日』
公演日・2014年8月29日(金)〜9月14日(日)
会場・シアタートラム
(『舞台男子と観劇女子』1号所収)