つかこうへい七回忌の新作『引退屋リリー』私的レビュー2/紅玉いづき

『引退屋リリー』の正体

引退屋リリー

 私の「はじめてのつかこうへい」は馬場徹だった。つかこうへいは馬場徹だ、と言っても過言ではないくらい、鮮烈な出会いだった。だから、今回未発表戯曲を馬場徹が主演すると知り、万難を排して行くしかない、と思った。
 つかこうへいについて、没後に知った私にとってはその存在が大きすぎ、人々の愛情が深すぎて、知れば知るほどわからない、と思う。ただ、その熱量と言葉が好きだった。それ以外に劇場に行く理由はいらなかった。期待があり、見たいものがあった。そして幕が開き、あとは拍手までは、暴風のような一瞬だった。

『引退屋リリー』の物語の筋立ては単純でありながら、その構造は複雑で観客を翻弄する。現実と回想、そして作中映画の世界を行き交い、酩酊の中で感情を揺さぶってくる。どこまでが誰の心の中であるのか、初見ですべてを理解することは難しいだろう。けれど、必ずしも理解をする必要は多分ないのだと私は思った。回数を重ねれば重ねるほど、わかるものもあるし、わからなくもなる。この演目自体が、戯曲自体が、これから上演を重ねてより複雑に、より単純になっていくのだろうという予感があり、今はただ、純粋な衝動だけを感じていればいいと、そう思った。
 劇場に座る前、一番考えたのは『引退屋』とはなんだろう、ということだった。その字面をあらすじそのまま受け取るのならば、『誰かを引退させる』人間なのだろう。そんな風なぼんやりとした思いは早々に打ち砕かれる。
 序盤、映画監督である山崎が叫ぶ。

「女優にとって引退とは死に等しい」

 そして、引退という一瞬の光を放つために、引退というパフォーマンスを売り物にする。それこそが『引退屋』の意味だった。
 そのことがわかった時に呆然とした。あまりに強烈な言葉だと思った。同時にあんまりに残酷な言葉だとも。
 卒業とか。休業とか。引退とか。
 華やかな世界を追いかけていたら、それらはなかなか避けては通れない、そして絶対に出会いたくないイベントだ。身を削って時間を削って、心を削って私達は愛したものを応援する。その応援している先から、唐突に別れを告げられる。それが引退だ。
 そして、認めたくはないけれど、知りたくもないけれど、私たちはわかってしまっている。その、引退の瞬間。最後の輝きが、一番美しいものであること。一番鮮やかであることを。
 だからこの『引退屋リリー』は残酷な話だ。残酷で、そして正しい。私の心はえぐられ、消えない傷を残した。
 そしてまた、馬場徹の演じるつかこうへいを追いかけていこうと、心に決めた。

 残酷で正しい世界の中で、馬場徹が鮮やかに台詞を歌い上げる。山崎銀之丞が圧巻の演技を惜しみなく披露し、町田慎吾と鈴木裕樹、そして吉田智則が軽やかに踊る。宮崎秋人はどこまでも純粋で、そして核となる『引退屋リリー』祐真キキは、登場人物が呼ぶ「お嬢」という呼び方がこの上なく似合う。彼女の美しい発音は、不良でやくざで、それでいて大和撫子だった。その黒い瞳は落ちぶれた娼婦のようにも、オードリーヘップバーンのようにも見える。

 一度見たきりでは混乱してしまうかもしれない。けれどラストシーンにおいて、いっそ清々しいほどのカタルシスが観客に襲い来る。
 あらすじの引退屋を読み、舞台上の引退屋を見て。

『引退屋リリー』とは、本当は、なんだったのか。

引退屋リリー 最善席

 2016年3月7日、この、「最も新しいつかこうへい」の演目、『引退屋リリー』は紀伊國屋ホールにて大千秋楽を迎えた。しかし、これからこの演目は演じ次がれていくのだろう。その時どのように変わっていくのか、楽しみでならない。
 また、今年はつかこうへい七回忌となる年。様々な場所で演じられる「今」のつかこうへいに触れてもらいたいし、触れていきたい。

 

文/紅玉いづき
撮影/おーちようこ 2月18日ゲネプロにて

 

つかこうへい七回忌特別公演「引退屋リリー」

http://www.rup.co.jp/lily.html

作 つかこうへい
演出 岡村俊一
出演 馬場 徹 裕真キキ 宮崎秋人 町田慎吾 鈴木裕樹 吉田智則 山崎銀之丞
東京・新宿:紀伊國屋ホール 2016年2月18日(木)~3月7日(月)

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