蒲田行進曲完結編『銀ちゃんが逝く』レビュー 賀屋聡子・おーちようこ・801ちゃん・紅玉いづき/掲載順

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大絶賛のうちに幕を閉じた、朗読 蒲田行進曲完結編『銀ちゃんが逝く』の追加公演が決定した。日程は7月23日(木)〜26(日)、紀伊國屋ホールにて。一般発売は17日(金)より。

ついては本作を観劇した最善席レビュアー陣による渾身のレビューをここに、お届けする──銀幕のスター・倉岡銀四郎という存在に、彼を取り巻く存在に、故・つかこうへい氏に最大の敬意を込めて。

文/賀屋聡子 おーちようこ 801ちゃん 紅玉いづき(掲載順)
撮影/おーちようこ

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【公演情報】

つかこうへい没後10年追悼イベント
朗読 蒲田行進曲完結編『銀ちゃんが逝く』
作:つかこうへい
演出:岡村俊一
出演:味方良介/井上小百合/植田圭輔
細貝 圭/綱 啓永/久保田創
公式サイト:https://www.ginchan-event.com/

 

 

“好き”をつらぬく切なさ
賀屋聡子

 

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 ふと、こみ上げるように涙が出た。それは一幕の終盤、植田圭輔さん演じるヤスが、井上小百さん合演じる小夏に心を吐き出すシーンのこと。
「お前なんかに俺と銀ちゃんの仲、邪魔されてたまるか」「銀ちゃん、小夏は俺のすべてなんです」―-小夏をののしりながら、味方良介さん演じる銀ちゃんには小夏が大事だと訴えるヤス。筋が通らずバラバラで、混乱している。でも、全部本当の気持ちで嘘はなくて、張り裂けるように叫ぶヤスに、どうしようもなく泣けてしまったのだ。

『朗読 蒲田行進曲完結編 銀ちゃんが逝く』は、コロナ禍の影響で全二幕の朗読として行われた公演だ。『蒲田行進曲』初体験の私が観劇したのは7月12日の千穐楽(現在、7月23~26日までの追加公演が決定している)。東京では連日200人を超えるコロナ感染者が確認されており、会場の紀伊國屋ホールも入口での検温、手の消毒、マスクの着用はもちろん、チケットは観客自身がもぎる、前後左右を開けて設定された座席、場内での会話を控えて欲しい旨をアナウンスが流れるなど、ある種の緊張感に包まれていたと思う。そんな中、幕は上がった。

 舞台上の気迫は、客席にビリビリ伝わってきた。銀幕のスターとして煌めきを放つ銀ちゃん。その銀ちゃんが好きで好きで、銀ちゃんのためならなんでもする大部屋役者のヤス。銀ちゃんの子どもを宿しながら銀ちゃんに捨てられ、ヤスと結婚する女優の小夏。キャストたちは朗読の枠に収まりきらず、舞台いっぱいに動きまわり、心のうねりを観客につきつけた。映画をとるということ、スターであるということ、それぞれの生い立ちや、コンプレックス、傷。そして、何が大事で何を選ぶのか――。そこには、濃縮された人生の喜びと悲しみが詰まっていたのだ。

 中でも不器用でひたむきなヤスから、目が離せなくなった。大好きな銀ちゃんのために、命懸けの「階段落ち」も、小夏も引き受ける。憧れの銀ちゃんのそばにいたいから、銀ちゃんの望むことは全部やる。なのに、銀ちゃんは遠ざかっていく……。人生には一生懸命でも、報われないことがある。正しいか間違っているかではなく、捨てられない想いがある。そんなものを全部抱えて笑い、泣き、ちぐはぐな心に挟まれ苦しみながらも、「銀ちゃん、かっこいい!」「大好きだよ、銀ちゃんが」と叫び続けるヤスの姿が、切なくて愛おしくて、ただ涙が出てしまうのだ。

 二幕の最後まで心はガンガン揺さぶられ続け、幕が下りた後、立ち上がって拍手をしていた。この時期に劇場で公演することは、キャスト、スタッフのみなさまにとっても大仕事だったに違いない。それを乗り越え、すごい熱量でこの物語を届けてくれたことに、ただただ感謝。初めての『鎌田行進曲』は、ヤスの「切なかったんだ、この心が」という台詞とともに、しっかりと胸に刻まれた。

 

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役者、この愛すべき罪深き存在。
おーちようこ

 

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口汚く罵る──銀幕のスター、倉岡銀四郎が。
「五条河原で飯炊きやってた、男芸者どもがぁ、随分と成り上がったもんだ!」

口汚く罵る──中村屋600年を支える大看板の喜三郎が。
「おめえ、聞いてなかったのか。この世界で生き残って行きたかったら相撲と俺ら歌舞伎に歯向かうな、と!」

小夏が言い切る。
「ヤスさん。これから撮影が始まります。こっからこっちがわたしら、スターさん。こっちから向こうはあんたら、ゴミです。そのスターってもんを守るためにあたしら必死で頑張ってるんです。見ておきなさい」

大部屋俳優で、誰よりも銀ちゃんに惚れているヤスが、ぼろぼろと泣きながら強い瞳で答える。「はい!」

これは銀幕のスター・銀ちゃんと銀ちゃんに尽くす大部屋俳優・ヤス。そのふたりの間で葛藤しながらも銀ちゃんを選ぶ小夏の愛の物語である。が、同時に「人前に立つ」という人生を選んだ者たちが、己の命を燃やしながら輝きを放ち、「銀幕」という修羅の道を歩む物語ではなかったか──。

わたしの仕事はライターで、取材して話を聞くことが生業(なりわい)ですが常に思うのです。
「人前に立ちたい」と願い、実現してしまう人たちは褒め言葉として、狂ってる、と。
だから、訊きたくて、訊きたくて、訊きたくなる。
あなたは、なぜ、そこに立ち続けるのか、と……この舞台にはその答えがありました。

 

「役者、だから」

 

銀ちゃんは問われる。「小夏はおまえを斬れるのか?」
銀ちゃんは答える。「斬るさ。役者だからな」
そう、舞台の上にいるのは、役者なのだ。

役者だから、ど真ん中に立つ。
役者だから、河原者だろうが典泥(でんどろ)だろうが関係なく、ただ眩しい。
役者だから、孕ませた女を自分の大部屋俳優に押し付ける。
役者だから、死ぬかもしれない大階段から転がり落ちる。
役者だから、家のために妻を差し出す外道となる。
役者だから、愛した男を斬る。
役者だから、役者だから、役者だから、役者だから、役者だから、役者だから、役者だから、役者だから……その輝きに恋い焦がれ、待ち望む、わたしたちのために総てをさらし、投げ出してしまう。観客のためだけに。

役者という存在の彼らは「舞台」という決して観客が踏み込めない……そう、まるで小夏がヤスとの間に引いた「スターさんとゴミ」の一線の向こう側(しかし、わたしたちはゴミと呼ばれるヤスにすらなれない)で壮絶な姿を突きつける。

時節柄、制限のある演出だった。制限のある客席だった。なんだったら制限だらけの空間だった。
けれども、目に焼き付けろよ、逃げんなよ、最期までちゃんと、そこから動かず観てろよ、と、その総てを叩きつけられた空間には──とてつもない快感があった。酩酊があった。
つかこうへい氏、10年目の命日にあたる初日、7月10日。初の試みとなるストリーミング配信も行われたが、きっとモニターの遥か向こうにまで、その熱は届いたに違いない。
だから最初から最後まで、わたしたちは見つめ続けるしかないのだ。

この春、たとえ、どれほど多くの舞台が奪われてしまったとしても……とっくに魂は役者に奪われているのだから。

 

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銀ちゃんのこと。
801ちゃん

 

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倉岡銀四郎、銀ちゃん。
その人がわたしの人生に現れたのは13歳か14歳くらい、中学生の頃だった。
深夜だったか土曜日の昼下がりだったか、あのフアンフアンという気の抜けたような朗らかな、それでいて人を食ったかのような音楽が流れる。
虹と光のキネマの天地 映画界という舞台に、銀ちゃんは趣味の悪いスーツで現れた。

そして2020年7月紀伊國屋ホール。
大人になったわたしの目の前に、銀ちゃんはふたたび現れる。
劇場の高い天から射す一筋のライト。そのまっすぐな光を斬る斜め45度の肩。
赤いシャツに白いスーツ、青いアイシャドウ、斜めのハット。
倉岡銀四郎、この世で一番いい男である銀ちゃんを構成するさまざまな要素。
銀ちゃんが壇上に現れたとき、マスクの下でわたしは呟いた。
「銀ちゃん、かっこいい」と。

銀ちゃんはスターというには少し様子の傾いてきた映画俳優だ。
軽薄で女癖が悪く、すぐに暴力をふるい、自分が孕ませた女を舎弟に押し付け、その目の前でさらに女を抱く。そしてその女がやっぱり必要だと帰ってくる。さらにはその舎弟は自分のために命まで張っているというのに!
俺の顔さえ映ればいいのよ、なんて演技についてのこだわりを見せる様子もなく、自分こそがスターなのだから、自分がいればすべては成立すると言い切る男。
そんな正気とは思えないような、最低な男にヤスも小夏もわたしも夢中だった。
ヤスは銀ちゃんしか見ていなかった。小夏が好きだ、生まれてくる赤ん坊のことも大事だ。その言葉にきっと嘘はない。けれども、ヤスはそれ以上に銀ちゃんが好きで、焦がれていた。
小夏だってそう。穏やかな愛情をうけて、初めて真っ当な家庭を築いていこうと思っても、やはり銀ちゃんに惹かれてしまう。
そこに理由なんてなかった。銀ちゃんはスターなのだ。カリスマ性という言葉では軽く感じられるような強烈な光。その光をもって人の目を灼くことができる一握りの人間のことを、人はスターと呼ぶ。
そう。わたし達は皆、あの傲岸不遜なまなざしに両の目を焦がされていた。

ヤスの、激しい愛憎がぶちまけられればぶちまけられるほど、銀ちゃんの光は増す。
憧れの小夏の気持ちが自分に寄せられ始めていても、そんなことよりも大好きな銀ちゃんと昔のようにすごしたい、ヤスにはそれしかないのだ。
当たり前だ。星に触れた人間が正気でいられるわけがない。

銀ちゃんと、銀ちゃんに目を灼かれたヤスと小夏の二人を主軸に前半、いわゆる「蒲田行進曲」のストーリーを終え、朗読劇は後半「銀ちゃんが、逝く」に続く。
そしてそこで初めて、銀ちゃんの光がどこから産まれたものだったのかをわたし達は思い知らされた。
生まれであり、家族であり、血であり、銀ちゃんが銀ちゃんになる前の輪郭。それは銀ちゃんの放つ光が強くなればなるほど濃さを増す影そのものだった。人は自分と影を切り離すことができない。
彼にはスターとして生きていくほか、道はなかった。

しかし銀ちゃんが選んだ最期は、スターとしてのものではなかった。
彼は、彼の憎んだものに連なる呪いをかけられた、血を分けた娘のために最期を選んだ。
そこにいつもの狂気は一つもなかった。

実際のところ、銀ちゃんはいつだって正気だった。
死の床についている二歳の娘に対し、正気で「セックスはよいものです!」などと語り掛ける。
冷静に考えれば、あんな男に夢中になるヤスと小夏の方が狂っている。
「俺の前で小夏さんを抱いていた銀ちゃんが好き」そういうヤスの方が100万倍正気ではない。
いやでもわかるよ、ヤス。わたし達の好きな銀ちゃんはそういう銀ちゃんなんだよな。

そうして、味方良介演じる銀ちゃんの人生は、植田圭輔演じるヤスの運転する車の後部座席で幕を下ろす。その頃には、銀ちゃんの瞼の青いアイシャドウはほとんど落ちてしまっていた。
銀ちゃんの人生の最後の最後まで必要だったお化粧で、銀ちゃんとしての人生の終わりを表していたように見えた。

銀ちゃん。あなたは今どこにいますか。
ハリウッドで役者修業はどうでしたか。
メキシコで金は掘り当てられましたか。
今は宇宙の謎を探りに行くんだなんて、NASAでスペースシャトルに乗せろなんて言っていませんか。

でもあなたはどこで何をしていても、きっと誰かの目を灼いていることでしょう。
そんな銀ちゃんを見て、わたし達は言うのです。

「銀ちゃんかっこいい」と。

 

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出会うなら、今しかない──蒲田行進曲完結編『銀ちゃんが逝く』
紅玉いづき

 

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 お恥ずかしながら、超有名作であるところの「蒲田行進曲」、映画版をこの機会にはじめて視聴しました。「つかこうへい」と事故みたいに出会ったのが数年前で、「蒲田がこの世で一番好きな映画!」と言ってはばからない友人の801ちゃんにも、「まだ見てないの!?」と言われながら、ようやく、ようやくの出会いでした。最高の作品であることは知っていたのです。いつもつかこうへい舞台の「予告」で、銀ちゃんの長台詞は聞いていましたから。この物語を嫌いなわけがない、そう思っていました。そしてその通りに、最高の映画で予習をしながら、きっと忘れないだろうなと思いました。2020というこの年に、この混乱の中で、この映画を見て、言葉を浴びたことを、きっと私は忘れないだろう、と。
 そうして準備万端のつもりで挑んだ、蒲田行進曲完結編「銀ちゃんが逝く」ですが、悔しくもありがたいことに、配信での視聴となりました。劇場で見たくなかった、といえば嘘になります。でも、こんな時期であったので、劇場に座れないことよりも、配信があることに感謝して視聴をはじめました。自宅で、パソコンの画面から、つかこうへいの舞台の熱を本当に受け取れるのかなと思いながら。
 そうして舞台の幕があがり、最高じゃないか、と拳をかためるまで、実に数分でした。
 白いスーツをキメた味方良介さんの銀ちゃんが、
「スターに責任なし、才能にまさる努力なし!」
 そう叫んだとき、わたしも完全にこの「銀ちゃん」のことが好きになってしまいました。こんなの絶対好きになってしまう、と叫びながら必死に画面にくらいついていました。そして、「つかこうへい没後10周年」の意味を知ることとなります。
 今回の公演にはつかこうへいの舞台、その様々な「鉄板」が差し込まれているように感じられました。ここでつかこうへいを知ったひとは、様々な舞台を知ったあとに、ここに帰ってきて欲しいと思ったし、同時にもっとつかこうへいの舞台を知っていれば、もっともっと面白いのだろうなとも思いました。
 2020年の春、多分、私たちは多くのものを失いました。自粛の名の下に、あまたの作品、あまたの感動、あまたの思い出。でも、その中で、失ったもの、得られなかったものだけでなく、得たものの数をかぞえたい、と思います。それがこの「銀ちゃん」であり、「銀ちゃんが逝く」であり、あるいは「蒲田行進曲」であり、「つかこうへいの舞台」であったとしたら、こんなに素敵なことはない、と思いました。今出会えてよかった、いや、出会うなら今しかない、と。

 わたしが蒲田行進曲を愛おしいと思ったのは、それが孤独の話だったからです。才能と、芸術と、孤独の話。愚かしいほどの孤独に光を当て、それを礼賛する話。私の一番好きなものであるのは間違いなかったので、「銀ちゃんが逝く」にもその孤独が確かに受け継がれていたことを喜びましたし、そして同時に「銀ちゃんが逝く」は、宇宙の話でもありました。つかこうへい作品においてたびたび語られる、宇宙にまで響く愛の話。
 映画が当たるか、当たらないか。それが命よりも重い価値基準であったはずの彼らが、銀ちゃんが、最後に愛した者の「命」を想って、祈って、願って、階段から落ちる。そこまでぐるぐると宇宙が巡っていくのだ、ここまで行きつくのだ、と考えました。
 ひとりでも多くの人に見て欲しい、と思いました。どんなに言葉を尽くしても、あの舞台の衝撃には敵わないのだから。劇場に座ることができれば最高だけれど、配信だっていい。書き切れないほど、好きなシーンがあります。鮮やかなスポットライト。本当に狂っているのは、才をもっているひとではなく、才をあがめなければならなかった人々だということ。一幕の握手。テレビ屋の矜持。そして、銀ちゃんが、「いちいち言うな、俺を好きなやつは多い」という、あたりまえのことを、あたりまえにいってくれるところ。
 何度だって思い出すし、どこまででも好きになれる、と思います。
 でも今は、この出会いに、感謝を込めて、思い出の最後に、こう呟きます。
 ──銀ちゃん、おつかれさまでした。

 

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